思い出は淡い方がいい

私は写真を撮る癖がない。

昨今、スマホの普及によって誰でもどこでも写真を撮ることができる時代に私の写真フォルダは大して容量を圧迫していない。たまに写真をひらけば出てくるのはラーメンの写真か仕事の写真ばかりだ。写真を撮る理由も人それぞれだろう。中でも今多いのはSNSへの投稿ではないだろうか。Instagramでは特に誰でもモデルになれる可能性を秘めていると思う。一時期インスタ映えのために食べ物の写真を撮り、食べずに捨てる行為で世を賑わせていた。私はが中学の頃にはまだSNS発展途上で有名人の利用者は少なく、顔写真を載せる人はほとんどいなかった。むしろ身バレしないように振る舞っていた。それがいつの間にかSNSをやっていないと世の中に着いていけないレベルになってしまった。そんな激動の時代を年頃に迎えた私だが、いつもの如く流行の波に乗り遅れ、というか乗り損ね、写真を撮るという文化は私は身に付かなかった。

 

とはいっても、旅行に行った時や特別な思い出があるときは私だって写真を撮る。今のカメラの技術は訳がわからないくらい高性能だ。少し暗い場所で撮っても勝手にカメラがピントを合わせ鮮明な写真が出来上がる。スロー動画も取れればいくらでも加工もできる。しかし、私のような特に撮りたいものもないし自分を綺麗に見せようというかもない者には正直不明だ。私のスマホiPhoneだが新しい機種の新機能がカメラの進化では全く魅力を感じないほどだ。

 

ただ、私は昔のカメラの画質が好きだ。フィルムカメラとか8mmカメラとか古臭い独特な画質がなんだかエモくて懐かしい気持ちになる。アプリでも似たような画質で撮れるアプリがあるのだが、たまにしか写真を取らない私はアプリを入れたことを忘れ、いつものカメラで撮ってしまう。初めて自分のお金で車を買ったとき、良さげなロケーションでフィルムカメラのアプリで写真を撮り、インスタにあげてみたところ友達から「網戸の前で撮った?」や「心霊写真」、「カメラ壊れた?」といったありがたいコメントで溢れた。これだから友達との付き合いはやめられない。そんな感じで私の感覚は友達の間ではいまいち伝わらなかった。

 

結局のところ私は思い出なんて鮮明じゃない方がいいと思っている。写真は記憶を思い出す手がかりの一部程度になってくれれば十分だと思っている。昔の写真があたかも目の前の今起きている出来事のように感じてしまうと、思いを馳せるというよりもただの気楽になってしまう。感じがするのだ。結局は感覚の話なので伝わらなくても構わないと思うが、主役は写真ではなく思い出ということだ。いや、何を書いているのかよくわからなくなってきた。

 

とは言っても絶対ことあるごとに写真を残した方がのちのち何かと便利なのだろうし、忘れることもないだろう。私の頭の容量は既にiPhoneより劣っていることだろう。というより性能もiPhoneに劣っている気がする。というか私がiPhoneに勝てるジャンルないかもしれない。

でも大丈夫、私にはまだ拳がある。